愛は、人間が本来持っている特性です。愛すること、愛されることは人間にとって最も基本的なニーズです。しかし愛は、私たちにとっておそらく最大の喜びであると同時に、最大の悲しみとなる可能性を秘めたものでもあるのです。愛について考える時、私たちは次のように問わずにはいられません。「痛みを味わったり結果として苦しんだりすることなく、愛することはできるだろうか?」この文章では、この重要な問題への答えを見つけていきたいと思います。
愛は生来必要とされるものであり、私たちはおいしい食べ物や果物を愛します。私たちの両親、配偶者、子供たち、親友たち、仲間たちを愛します。信仰深い人々、預言者たち、聖人たちを、生命、若さを、春、美しいもの、そしてこの世界を愛します。これら全ての物事、人々が、一時的もしくは永久に消失することによって私たちを放棄すること、もしくは彼ら自体の苦しみ(例えば病気、死、加齢)によって私たちを苦しませることは私たちの心に影響を与えます。そして私たちはこう問わずにはいられないのです。
「私はこれらを愛することをやめられない。痛みを伴わずにこれらを愛することは出来ないのだろうか?」と。痛みのない愛の処方箋はないのでしょうか。
意志によって、愛はその顔を一つの対象から他のものへと向けなおすことがあります。例えば、最愛の人が若干の見苦しさを示したり、あるいは彼や彼女が真に愛されるべき存在のベール、もしくは鏡であることを示したりした時、愛はその顔を比ゆ的な意味の愛される存在から、真に愛される存在へと向けなおすことがあります。
痛みのない愛の処方箋
愛する人との別れ、最愛の人の衰え、あるいは愛する人からの反応が少ないことなどによって、愛は痛みを引き起こすことがあります。痛みを伴わない愛を経験するためには、私たちの愛情の対象が永遠であり、衰えることなく、また確実に反応をかえしてくれる存在である必要があります。神だけがその特質を持つのです。神は永遠で、衰えることなく、またいつでも私たちの愛に答えて下さるのです。
したがって痛みを伴わない愛の処方箋とは、私たちの愛を神に捧げることであり、そして神ゆえに全てを愛することなのです。人が、愛しているものを愛さなくなると予想するのは不合理です。しかし全能の主ゆえに、神の名において愛することは可能なのです。いくつかの例を考えていってみましょう。
おいしい食べ物に対する愛着
おいしい食べ物、果物に対する愛着は、それらを、全能で慈悲深い主の恩恵と見なすことによって、神への愛へと変化させることができるでしょう。 それによって私たちのそれら食べ物に対する愛着は、
恩恵、慈悲、慈愛という神の美名への愛となるのです。さらに、それは感謝を引き起こします。そのような愛は許された範囲の中で満足を得ることを求めるもので、本来の魂ゆえでもあり、また慈悲深いアッラーの名ゆえでもあることを示します。それは熟考と感謝によって楽しむためのものなのです。
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